地球人類はハイブマインドに進化するか?

ハイブマインドという単語自体を知らない人は、けっこういると思う。なぜならGoogleで検索してみると、かなり手薄な状態だからだ。まあ、SFジャンル自体が日本では手薄なんだけど、少なくとも日本では普及してない単語なのは間違いない。そんなの当たり前という特殊な用語ではあるのだが、コロナの洗礼を受けた、この混沌とした世の中を渡っていくためには知ってると得する単語だと思うのだ。

ハイブマインド要素を扱っているエンタメ作品はそれなりにあるので、作中で読んだり聞いたりしたことはあるけど、その意味を咀嚼できていないという感じの人も多いと思うが、ハイブマインドというアイデア自体に興味を持てない限りは、SFのそれっぽい言葉だと認識するだけだろう。それでは、作品を堪能したことにはならない。わざわざハイブマインド設定を採用している作品は、作者が伝えたいテーマがあるはずだからだ。いかした能力では済まされない設定ポテンシャルがハイブマインドには有る。むしろハイブマインドという言葉は出さないでエッセンスをまぶしている作品のほうが圧倒的に多いと思う。科学用語やSF用語はSFファン以外のハートをキャッチするのは難しいから正しい選択ではある。

さて、ハイブマインドを簡単に説明すると

複数の個が意識共有した一つの存在

という感じかな。

これだけ聞くと進化を求める種にとって非常に好ましい未来系の形態であり、地球人類が目指すべきものと思えるのだが、今の我々にはハードルが高すぎるのも事実だ。もちろんハイブマインドは現在のところSFの域は超えないものではあるが、蟻や蜂という身近なハイブマインド(超個体と呼ばれる)が実在することを思えば、賢いと自負する人間様ならば、そのうち成し遂げられると確信している。

ということで、乗り超えなければいけないハードルを考察してみたい。

まず、地球人類が本当に目指すべき価値があるのか、エンタメ作品を分析してみよう。エンタメがゆえ、作品を彩るために、ハイブマインドはネガティブに扱われることが多々あり、それは大きく二つのタイプに分けられる。

◆地球人類の敵となるハイブマインド種が登場するタイプ

お話の構造としては、しごく単純な部類。分かりやすい例としては『スタートレック』の【ボーグ】がある(ただし最新作の『ピカード』では変質しちゃって個人的に微妙な種族になってしまった)。宇宙探究を推し進める惑星連邦の前に、異を唱えるように立ち塞がるボーグは、生物学的に地球人類の遥か先を行く高度な知的生命体だ。スポックを輩出したバルカン人でさえも手に負えないハイブマインド種だ。ボーグクイーンがいることで蟻社会に例えられることもあるが、彼らは虫系の超個体系とは違い、サイバネティクスを施されたハイブリッド生命体であり、自力で進化してハイブマインドになったということだ。しかし、悲しいかな正義役の惑星連邦を引き立てるための悪役あるいは道化なので、どこかネジが緩んでいる。

ハイブマインドであろうがなかろうが理想の悪役を仕立てるために賢いキャラを短絡的におバカさんにしてしまいがちだが、SFを冠する作品の場合だと、上手くやらないとセンスが悪いだけじゃくて構造的に手抜きになってしまう。作品をコンパクトにまとめるためには手っ取り早いんだろうけどさ、急がば回れってね。特に、最初からハイブマインドの種族でもなく、長い年月をかけた心身の自然変化によってハイブマインドになる種族でもなく、自らが望みテクノロジーによって進化をすることでハイブマインドになった種族なんて、そこに到達するまでの経過を詳しく語ってほしかったりする(だって、そこが一番面白そうでしょ!)のだが、丁寧に重層的に創作しないと中途半端になってしまいそうだし、しょーがないのかなとも思う。でも、単なる敵なんて飽き飽きだし、せっかくのハイブマインド設定を活かしきれてないわけだから、もったいないと思うんだよね。

あからさまな敵じゃない場合もあるね。アーサー・C・クラーク作『幼年期の終わり』の【オーバーマインド】とか。だけど、既得権益を得て優越感に幸せを見いだしている層にとっては個の終焉をもたらす最悪の敵には変わりないだろう。そういう意味では地球人類は残念ながら二一世紀になっても原始社会から脱してないと評価されても致し方ない劣等種族であり、ここでは詳しく説明はしない。わからない人はネットで多方面(Google一択とかは情報の裾野の広さを見誤るから要注意)を調べて、この地球人類社会が悲しみと怒りに満ちていることを把握してほしい。ハイブマインドを目指すには、それが出発点になるのだから。

◆個性が奪われ家畜化する地球人類を描くタイプ

生物としての進化によってハイブマインドを達成する手法に対して、社会が統制される形で多数が「一つ」になるタイプ。要するにディストピア的な世界観の作品だ。完成されたディストピア体制を舞台とするものはレイ・ブラッドベリ作『華氏451度』の思考統制、ジョージ・ルーカス『THX1138』の感情統制、伊藤計劃『ハーモニー』の医療統制あたりが挙げられる。そういえば、攻殻機動隊の新作SAC_2045の作中で引用されていたジョージ・オーウェル『1984年』もあるなあ。攻殻自体もそれっぽくはあるのだが、ゴーストやらメタバースやらの面白ネタが混在してるので、ちょっと主張が弱い感じではある(過去作に登場したクゼ・ヒデオの巻はイイい感じなんだけどなあ。テーマを絞ってやらないと、いいとこが相殺しちゃうよね)。個の自由が奪われディストピアに向かおうとする潜在的ハイブマインド作品ならば解釈次第で幾らでもあることになる。そのへんの作品になるとハイブマインドへの作者の思い入れがどのぐらいあるかは玉石混淆ではあるのだが、意図的に設定を活かしていないからといって作品の面白さには関係ないし、結果的にハイブマインドを語っている作品が創造されるなら、それは知らず知らずのうちに時代のニーズに応えているということなのだろう。

「個性が奪われ家畜化する」とは、わざと自虐的に書いてたりするのだが、人間社会がディストピアへ歩むことへのシンプルな拒否反応であり、その実は管理社会の全てを否定したいわけでもない。良い管理もあれば悪い管理もある。怠惰な者にとっては正しい資質を持った飼い主ならば家畜化大歓迎だが、飼い主が正しくない資質の持ち主なら管理される我々民衆にとっては大問題であり、子孫の未来までも暗雲につつまれていることになる。果たして度を超した管理という手法でハイブマインド的な進化を遂げた地球人類はユートピアを築くことができるだろうか。それはディストピアのことをユートピアだと錯覚するようなコントロールされた人間を製造することに他ならないと思う。かといって世界政府の準備期間であるべきはずの国連が機能不全を起こし、一枚岩になろうともしていない地球人類が度を超さない限界ぎりぎりの管理を追求するのは極めて難しそうだ。社会的ハイブマインドだけが未来に進むための手法ではないと信じたいが、もし唯一の手法なのであれば、悲しいかな我々地球人類は既に詰んでいる可能性すらある由々しき事態だ。この状態は現代で稼働している社会システムが機能し始めた頃より着々と恒常化されてきた成果であり、民衆が当然のように受け入れている限りは簡単に覆せるものではない。

地球人類はハイブマインドに進化するか?

このままいけば近い将来、通信技術の発達と通信内容のコントロールによってハイブマインドにはなれると思う。だが、それは進化とは言えないものであり、管理を盾に取った暴君的存在が、名君として尊ばれる世界になってしまうだろう。思考が停滞した種族の末路である。そして、それは今現在も完成形に向けて加速しており、その真実を無垢なる民衆は把握できていない。『リベリオン』ジョン・プレストンのごとき覚醒した屈強の反逆者が現れるなんて都合のいいことが起きるわけがない。ハイブマインドは皆が一つになるがゆえに、その色は皆で決めることが理想だ。賢王、賢者あるいは技術者のような者が民衆の支持を基盤にして導くのでも良いだろう。邪な支配欲がある者は排除されなければいけない。直接に血を流す必要はないが、民衆が清濁あわせた情報の大海を行く探求者になることができたなら、ハイブマインド革命によって、きっとユートピアが築けるはずだ。エンタメ作品においてハイブマインド要素を扱うのは本能的に進化を望んでいるからと信じたい。

伊勢日向(B)

https://sfmind.info/2018/12/29/p0002/